江南散策道(信長・吉乃編)

織田信長と秀吉が天下制覇の第一歩を踏み出した場所である生駒屋敷など、
織豊時代 を代表する武将たちにとって青春の舞台となった地を布袋駅から
スタートして散策します。
順路は、布袋駅(スタート)⇒富士塚の碑⇒宝頂山墓地⇒般若寺⇒生駒屋敷跡
(小折城)⇒久昌寺⇒龍神社⇒常観寺⇒経塚(吉乃荼毘地)⇒布袋駅(ゴール)


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江南歴史散策道の案内看板


 
平成4年NHK大河ドラマ「信長」の放映を機
に織田信長と秀吉が天下制覇の第一歩を踏
み出した場所を持つ江南市は、布袋駅前に
「信長・生駒吉乃コース」の案内看板を立て、
観光の目玉の一つとしPRしている。

名鉄犬山線布袋駅 (スタート) 

 駅舎は名鉄駅で最古となる大正元年の開業
当初からのもの。外観は大正ロマンを感じさせ
る擬洋建築となっており、洋風のハイカラな車
寄せと瓦葺の屋根という対照が瀟洒な印象を
生んでいる。

 今、この布袋駅は鉄道高架化事業の推進に
より、駅舎の保存か、取り壊わしかが検討され
ている。


大正元年(1912)8月6日布袋駅として開業

乗車人員 : 4,134人/日(2006年)

 この写真は、2008年布袋駅舎フォトコンテ
スト(主催:ほていコミュニティ協議会)で見事
「銀賞」受賞の作品で、知人で作者の中尾八
重子さんから画像提供を受けたものである。

 

富士塚の碑

 富士塚は、五世紀末(490年頃)前方後円
墳といわれ高さ約6.5mの小山。天正12年
(1584)小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦
った徳川家康は清須城から生駒屋敷を訪れ
織田信雄と共に、この富士塚に登って戦況・
敵陣を視察し小牧山の本陣に戻り、その後の
戦いを有利に展開することが出来た。

 後世、生駒氏の6代利勝が天和2年(1682)
に生駒家の由緒と武勲を残すため、林羅山の
孫・林信篤に碑詞を依頼し、六角の碑に刻し、
亀型の台石の上に建立されたものである。
 別名、お亀塚とも呼ばれている。

 

宝頂山墓地

 生駒氏の4代家長・5代利豊・10代周房が
祀ってある。家型の墓が利豊とその妻了応院
のものである。

 久昌寺本堂の西に、生駒氏の歴代の当主
および信長の室・吉乃の方(久庵桂昌)の墓
碑が立ち並んでいる。

 右より
 ・源庵常本居士(4代家長)
 ・椿石妙寿大姉(4代家長室)
 ・(5代利豊)
 ・(5代利豊室)

 なお、10代周房の墓は写真手前にある。

 
 

般若寺

 明徳2年(1391)に僧大雲が創建し、その
後、荒廃していたので、永禄年間(1558〜
1569)に生駒氏が再建した。

 この般若寺は久昌寺の末寺である。

 なお、平成22年度から般若寺の寺総代
(曹洞宗から責任役員を委嘱)として、務め
させて頂いている。

 

生駒屋敷(小折城)

 生駒氏は、大和国(奈良県生駒市)藤原忠
仁公の子孫で、生駒山麓の谷口村に住んで
いたが、応仁の乱の頃に戦乱が続いたので、
尾張の小折に移り住んだ。馬借(運送業)を
業として灰や油を商い、大きな勢力を持った。

 尾張の土豪、生駒氏の居城で3代家宗の娘
・吉乃がある時信長公に湯茶の接待をした時
見初められ、やがて室に迎えられ弘治3年
(1557)に嫡子信忠、その後信雄、五徳をも
うけた。生駒・織田の間は親密となり尾張一円
を支配するようになり、この生駒屋敷(小折城)
を築いた。

 秀吉(藤吉郎)は弘治元年(1555)生駒屋
敷を訪れ、蜂須賀小六の輩下になり、機知に
とんだ弁舌で吉乃の方に取り入り、信長の下
僕として二の丸で仕官した。

 信長の天下制覇のスタートとなった永禄3年
(1560)の桶狭間の戦いでは、この屋敷で軍
議が開かれたという。信長の死後、尾張の領
主となった織田信雄は小折城を久昌寺も取り
込み東西370m南北540mという広大な構えに
大改修した。

 
現在は布袋東保育園が建っており生駒氏の
邸祉碑があるのみで当時を偲んでいる

 










生駒屋敷(小折城)にあった中門

 当時生駒屋敷(小折城)にあった中門は、そ
のまま移築され、布袋の町中にある広間医院
所有の門として、現存している。
 意匠をこらした棟瓦・鬼瓦に往時の面影を
残しています。主人が外出する時は中門から
駕籠に乗って出掛けたため、門の南袖には
駕籠の棒を挿した穴が有ります。

市指定文化財


 なお、生駒屋敷(小折城)跡は、終戦直後
に実施された農地開放により、一般の住民が
住むようになりました。我が家は何故か当時
小折城本丸跡に居住している。

久昌寺

 至徳元年(1384)の創建ではじめは禅喜寺
といった。 その後、移住してきた生駒氏の菩
提寺となる。
 
 永禄9年(1566)に病没した吉乃の方(信
長の室)が「久庵桂昌大禅定尼」と号され同寺
に葬られるに及び、寺名が吉乃の方(久庵桂
昌)にちなんで久昌寺と改められた。

 曹洞宗で大本山総持寺の直末の寺で信長
の室・吉乃の香花の場として、信長から660
石を賜った由緒ある寺である。

 幼い頃、自宅近くにある久昌寺で良く遊んだ
ものである。



 

 
久昌寺の墓地

 寺の墓地は久昌寺本堂の西にあり、生駒氏
の歴代の当主および信長の室・吉乃の方(久
庵桂昌)の墓碑が立ち並んでいる


 右より
 ・久庵桂昌大禅定尼(信長の室吉乃の方
 ・(初代家広)(2代豊政)
 ・(3代家宗夫妻)
 ・(4代家長夫妻)
 ・(5代利豊夫妻)


龍神社

 創立は不詳であるが、元和8年(1622)に
再建。当所は国主織田信雄公の出生の地で
あり、同年岡崎城主徳川信康公の室見星院
(徳姫)と5代生駒利豊の再建で、氏神として
尊敬された神社である

 

常観寺

 通称、「お釜地蔵」で知られている。
永禄元年(1558)中興開基太広が再建し、
延宝・天和・貞亨(1673〜1688)の時代に
生駒氏6代利勝と計り、大造営を行っている。

 この常観寺は久昌寺の末寺である

 

経塚(吉乃の方荼毘地

 信長の室・吉乃の方が小牧城で病没し、荼
毘にふしたところである。

 石碑に刻まれている観音像は、吉乃の面影
が偲ばれ、小牧山を向いて建てられている。
 久庵桂昌大禅定尼の表札がある。 この荼
毘地田代墓地は江南市と一宮市の境にある

所在地は、江南市田代町西の丸地内)

 現地の標識には、この桜はNHK大河ドラマ
「信長」の生駒の方(吉乃)を演じた高木美保
さんが、平成4年5月5日久昌寺を参拝の折、
吉乃桜と命名されました。生駒の方(吉乃)は
織田信長の子、信忠・信雄・徳姫の三人の母
で、ここに眠ると記されている。











 吉乃桜   平成21年4月2日撮影