武 功 夜 話(ぶこうやわ)」 概 説    

 武功夜話       20冊(21巻) 吉田家16代目孫四郎雄翟(かつかね)著、号昌斎・達禅
               [同写本、吉田茂平治雄武・同文左衛門雄正(亀仙)]

 武功夜話拾遺    4冊(8巻) 吉田家16代目孫四郎雄翟(かつかね)娘千代女書留

 昭和34年(1959)9月26日午後、愛知県地方を襲った未曾有(みぞう)の伊勢湾台風で、江南市前野町の旧家吉田龍雲家の古土蔵が損壊して、多くの収蔵品と共に多数の古文書が発見された。384年間、人知れず埋もれていた古文書の中に貴重な「武功夜話」があった。
 著者は先祖代々の称号前野・小坂を故ありて吉田氏と改め、武門を捨てた吉田家16代目孫四郎雄翟[前野村庄屋、天正14年(1586)~明暦4年(1658)73歳没]である。

 「武功夜話」は古く源平の騒乱から承久の変、織田一族・信長・秀吉・家康の時代に至る尾張国の武士集団であった前野氏一族の武功について、後世に残すべく、寛永11年(1634)から3年余に亘り雄翟が先祖の遺した古文書や書留、生存古老の合戦体験談を纏め、途中雄翟眼力衰えて、娘千代女が代筆で完成させたものである。また「武功夜話拾遺」は、別に雄翟娘千代女が「先祖等武功夜話」として書き留めたものである。
 「武功夜話」は織田氏統一から関白秀次事件で前野但馬守長康自害までの記録であり、「武功夜話拾遺」は関ヶ原合戦・尾張義直公までの記録である。
 昭和61年新人物往来社から吉田蒼生雄全訳・武功夜話四巻と同補巻(千代女拾遺)一巻の全五巻を発刊した。これらは、織豊時代史の知られざる貴重な史料となっている。


 さて、懇意にさせて頂いています須賀弘之氏(江南郷土史研究会会長)は、現在尾北ホームニュースで「武功夜話物語」を執筆連載中の方ですが、当初連載にあたって、次のように語っておられます。

 21世紀、IT(情報技術)の時代に、私たちはあえて郷土の貴重な史料「武功夜話」を物語として読もうとしました。一字一句が自分たちの住む町に夢を与えてくれる物語であると思ったからでございます。昭和34年、かつてない大きな伊勢湾台風がこの地方を襲い、江南市の旧家吉田家の土蔵が壊れ落ち、約四百年間、人知れず埋もれていた記録「武功夜話」が発見されました。それは日本史の定説をぬりかえるがごとき、数多くの戦国文書でしたこの物語が郷土の誇りとして、若者に夢と希望を持って読んでいただけるならば、これほどの喜びはございません。

【 ま え が き 】
 
 「武功夜話」は、戦国時代織田信長・豊臣秀吉が尾張の地をはじめ、活躍して天下人となっていったことを中心にした前野氏(現江南市前野町、27代吉田龍雲氏)の覚え書きです。当家26代吉田武一は役場の助役でした。生前、自宅土蔵に保存されている、先祖から伝わるおびただしい古い文書を整理しようと気にしていましたが、先の戦争中から戦後と続く混乱で、物資や、紙一枚もない時代、整理もできないまま、病に冒されてついに昭和30年秋、心を残しつつ世を去ってしまいました。生前の日々、書斎の囲炉裏を囲み、祖父から聞いた祖先のこと、古文書のこと、聞き伝えなどを、夜や雨、雪の降る日によく昔話のように家族などに話していたそうです。

 昭和34年、愛知県地方を襲った伊勢湾台風のため、土蔵の壁が崩れ落ちてしまいました土蔵内には、数多くの古文書、古書本が保存されていました。生前、武一が成し遂げようと常々いっていましたが、戦後の世は乱れ厳しく、手を付けることができず年月だけが過ぎていきました。ようやく期を得て、土蔵にこもり調べてみると埃としみにまみれた古文書は何百年も経たものでその内容は、囲炉裏を囲んで武一から聞いた昔話そのものでした。それは「武功夜話」であり、「永禄に州俣城を築いた記録」「前野村の由来記」などでした。
 
 さて、「武功夜話」などの古文書は、約400年以前の記録で、当家16代吉田孫四郎雄翟が編纂したものです。雄翟は、天正14(1586)年に織田信長の次男、信雄の家臣、小坂助六雄善、妻勢以の長男として、今の江南市前野町に誕生しました。幼少の頃は清須(現清洲町)の総見院に人質のように預けられ恵仙と名乗り、同院みん山禅師に師事し厳しく学問を修めました。慶長五(1600)年、15歳の時、関ヶ原の合戦に父雄善とともに東軍、徳川家康の家臣福島正則の家来として初陣をしました。同七年父雄善が、清須城松平忠吉の家臣の時、城中で事件を起こし城を退去し、雄翟(かつかね)も総見院より前野村に帰り、還俗して親の跡を継いで庄屋職となりました。

 明暦4(1658)年、雄翟七十三歳で死去、号恵仙・昌斉。雄翟が「武功夜話」を編纂する動機は親雄善が隠世の日々、古文書を整理して一書となすため、執筆をしていましたが、関ヶ原戦に受けた槍傷が悪化して他界。その後を受け継ぎ、親の代にて永代続いた前野氏の武門、武功が絶えるのを惜しみ、後世に伝えるために筆を起こしたと雄翟は語っています。

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 「武功夜話を読む会」は、平成14年暮れに総見院を訪れました。門前には2メートル余の御影石粗削りの寺標に時代を感じました。お庫裏さん(寺の奥さん)が忙しくすす払いをしてみえました。「この寺は織田信雄が父信長の菩提寺として創建し、信長の「焼兜」が寄進されています。また、清洲城の北の守りを固めたところと言われております」と話されました。私たちは「この寺で吉田雄翟という人が学問を修めた末に『武功夜話』という書物を書き残していますので、お参りをさせていただきました」と、あいさつして参詣してきました。
 (以上)

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以下の貴重な写真は、
私が総見院に出向き、現住職戸崎氏のお許しを得て、平成21年2月1日に撮影したものであります。

興聖山総見院正面

 興聖山総見院は京都臨済宗本山
「妙心寺」の末寺である。

 建築に従事されていたことのある
住職のお話によると、この山門は丹
羽郡扶桑町山那にある臨済宗のお寺
が大改修された時に旧の山門を譲り
受けたとのことでした。。
総見院本堂

 この寺は天正十年(1582)本能
寺の変後、信長公嫡子信忠公の遺
領尾張を継承し、清洲城主になった
信雄公が翌年父信長公の菩提寺と
して、清洲城下北市場に「総見寺」を
建立し、妙心寺の忠嶽和尚を開山に
招いたのである。

 総見院とは、信長の戒名である。
織田信長公 画像

 住職のお話によると、最近織田
信長公画像の複製品として完成し
たものであるとのこと。
織田信長公遺品 焼兜(かぶと)

 信雄公が本能寺の変の直後に、
本能寺焼跡を捜索させて探し当て
た兜で、飾り物はすべて焼け落ち
鉢だけになった焼錆の兜であり、
これを信長公の遺品として手元に
大切に留めた。
 
 その後、転々としたが、天明五年
(1785)丹波国柏原城主織田家
の家老生駒・津田両名の署名花押
のある由緒書を容箱に上記の経過
を裏書きして、「信長公御召御甲」と
して由緒の寺・総見院に贈ったもの
である。
織田信長公 所用の兜

織田信長公 墓(右)
徳川義直公 墓(左)

 総見院の境内に織田信長公と
徳川義直公の墓所が安置されて
いました。