江南市内に残る岩倉街道(柳街道)編

名古屋城下から犬山まで結んでいた主要道路で、織田信長の時代に造られた道(清洲〜犬山)をもとに
尾張藩が藩道として整備したものです。犬山から柏森を経て、江南市域の前野・力長・今市場・安良・小
折の各村を通り、岩倉、さらに名古屋へと通じていました。なお、この街道は「柳街道」の別名があります
が、これは市域近辺を通る道の左右に柳の並木が植えられたことに由来するものと考えられます。現在
は、柳もなく、舗装されるなど、当時の面影を残す部分は少なくなりましたが、当時と同じ2間2尺(約4m)
幅の道自体は大部分が残っており、街道沿いに建てられていた道標は、各所で見ることができます。
犬山地区では、別名「稲置街道」とも呼ばれている。
       解    説             写      真
犬山城と城下(犬山市

 犬山城は、室町時代の1537年に築城
され、天守は現存する日本最古の様式
と言われ、国宝に指定された4城のうち
の一つである。
 特に信長・秀吉・家康の天下人が奪い
合った名城である。
犬山神社(犬山市


 社殿. 犬山神社は、犬山市にある神社
で、 この地には 犬山城の西御殿(平岩
親吉の屋敷を移築した建物)が存在した
場所である。
からくり展示館(犬山市


 犬山まつりで使われるからくり人形が
展示されている。

城とまちミュージアム(犬山市


 江戸時代の城下町を再現したジオラマ
や魅力を伝える映像で城下町散策が一層
楽しくなる。
史跡 敬道館跡(犬山市


 
どんでん館(犬山市


 犬山まつりで曳かれている13輌の
山車のうち4輌が展示されている。
犬山おどきの店前にある柳
犬山市

 店主のお話によると、開業時に由緒
ある柳を2本植えたとのこと。

柳街道(岩倉街道)の道標(扶桑町)

 道路の右側は名鉄犬山線が走っている。

柳街道(岩倉街道)の道標(扶桑町)
柳街道(岩倉街道)跡(扶桑町)
柳街道(岩倉街道)の道標(扶桑町)
柳街道(岩倉街道)の道標(扶桑町)
柳街道(岩倉街道)の道標(扶桑町)
柳街道(岩倉街道)の道標(扶桑町)

 扶桑町の柏森本町通りにあるコミュニ
ティ広場「幸房くわの木」内に11月30日、
柳街道の道の駅「ふくわや(扶桑屋)」が
オープンしました。
 扶桑のお土産″として、守口ケーキ
桑茶カステラ、桑茶シフォンケーキなど
11品目を取り扱い中とのこと。


柳街道(岩倉街道)の道標(扶桑町)
柏森神社(扶桑町)
柳大道の碑(江南市前野町)                           
若宮八幡社(江南市力長町)


 古くから安産の守護神として知られて
いる神社です。玉垣内のお砂を受ける
と安産間違いなしといわれ、遠方から
も参拝者が訪れます。

富士塚と案内板 (江南市南山町)

 富士塚は、五世紀末(490年頃)前方後円
墳といわれ高さ約6.5mの小山。天正12年
(1584)小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦
った徳川家康は清須城から生駒屋敷を訪れ
織田信雄と共に、この富士塚に登って戦況・
敵陣を視察し小牧山の本陣に戻り、その後の
戦いを有利に展開することが出来た。

 後世、生駒氏の6代利勝が天和2年(1682)
に生駒家の由緒と武勲を残すため、林羅山の
孫・林信篤に碑詞を依頼し、六角の碑に刻し、
亀型の台石の上に建立されたものである。
 別名、お亀塚とも呼ばれている。

柳街道(岩倉街道)に柳を植樹 
(江南市南山町)

 21年3月「地域の宝」柳街道(岩倉街道)
で“柳街道(岩倉街道)に柳”をご紹介したが、
同年6月5日に江南郷土史研究会(会長須賀
弘之氏)のみなさんが生駒三郎氏立会いの
もと、富士塚の道路側面上辺などに由緒ある
柳の苗を植樹した。当日は、あいにくの雨の
中、地元の方にもご参加いただいた。

会長の須賀弘之氏は、念願であった昔の
柳街道に今回ようやく「柳」が復活できて、
ほっとされた。

写真は植樹を終えた後の記念写真ですが、
歴史的な行事ということで、今回は中日新聞
と尾北ホームニュースさんが取材された。

筆者は左から一人目

宝頂山墓地 (江南市小折町)

 生駒氏の4代家長・5代利豊・10代周房が
祀ってある。家型の墓が利豊とその妻了応院
のものである。

 久昌寺本堂の西に、生駒氏の歴代の当主
および信長の室・吉乃の方(久庵桂昌)の墓
碑が立ち並んでいる。

 右より
 ・源庵常本居士(4代家長)
 ・椿石妙寿大姉(4代家長室)
 ・(5代利豊)
 ・(5代利豊室)

 なお、10代周房の墓は写真手前にある。

柳街道の道路標識(江南市南山町)

 この道路標識は最近の建設である。
 なお、写真画像の右の自動車はマイ
カーです。

般若寺 (江南市小折町)

 明徳2年(1391)に僧大雲が創建し、その
後、荒廃していたので、永禄年間(1558〜
1569)に生駒氏が再建した。
 この般若寺は久昌寺の末寺である。

 なお、平成22年度から般若寺の寺総代とし
て務めさせて頂いている。

岩倉街道沿いの道標
         (江南市小折本町)


 この道標には、左 一のみや
            右 いぬやま
と書かれている
県道の拡幅工事のため、
現在の小折東区横町公民館駐輪場内の
東北角に大切な遺跡として移設された。

 昔は、小折五叉路の交差点北東角に道標
として設置されていたもの。我が町内に現存
する由緒ある史跡の一つである。

 奥の建物は、昔から村で大切に保存して
きた馬頭観音像(真ん中)らが安置されて
いる。般若寺の元照和尚のお話では農家
では農耕馬の安全や道半ばで力尽きた馬
の冥福を祈るために馬頭観音は作られた
ということです。
 小折の神明社
         (江南市田代町)


 神明社は小折の田代町郷中にあり、『神社
明細書』によれば、明応年間(1492〜1501)
生駒家広が領主としてこの地に居住するに
あたり、守護神として勧請(かんじょう)した社
ということです。

 『尾張徇行記』によれば「当村五社祠官
山田和泉書上ニ神明外宮社五畝歩、神明
内宮社内九畝六歩・・」と記されています。
即ち小折村には二つの神明社があり、
それは外宮(南山神明社)と内宮(当神明社)
でいづれも生駒家代々の氏神であった。
 尾張江南の酒蔵 勲碧酒造
         (江南市小折本町)


 私の地元・勲碧酒造では、昔ながらの
手造りで尾張江南の旨い地酒を造っている。

勲碧酒造(株)の代表者は村瀬公康氏で
社長兼杜氏であり、異色の存在と言える。


勲碧酒造のホームページは、
http://www.kunpeki.co.jp/
 
 小折の南山神明社
         (江南市田代町)


 『尾張徇行記』によれば「当村五社祠官
山田和泉書上ニ神明外宮社五畝歩、神明
内宮社内九畝六歩・・」と記されています。
即ち小折村には二つの神明社があり、
それは外宮(南山神明社)と内宮(当神明社)
でいづれも生駒家代々の氏神であった。
 

昔からあるのんぼり屋(岩倉市)

 岩倉市には400年の伝統を誇るのぼり屋
がある。
のんぼり洗い」が東海農政局長
から「東海美の里百選」に認定された。

 

のんぼり洗い(岩倉市)

 五条川で行われるこいのぼりの糊(のり)
落としは、「のんぼり洗い」と呼ばれ、春の
訪れを告げる季節の風物詩として有名。
伝統的な手法を今に伝える、「のんぼり
洗い」の実演は毎年行われている。
岩倉桜まつり(岩倉市)
下之町山車格納庫(岩倉市)
神明生田神社(岩倉市)

 神明生田神社は、山内一豊の誕生碑
のある神社です。
柳街道(岩倉街道)の道標
(岩倉市)
岩倉城跡 (岩倉市)

 織田伊勢守の本城として尾張上半国支配
の拠点であった岩倉城は,1559年(永禄2)
に織田信長により落城した。
  現在では,城址碑や地名に名残りを留め
ているに過ぎないが,城の構えは東西約
90m,南北約170mあり,二重堀で,広大な
館や望楼があったと言われている。岩倉城
が織田伊勢守の本城として尾張上半国支配
の拠点となった期間は約80年であった。

名古屋城 (名古屋市)

 名古屋城は、徳川家康が天下統一最後
の布石として築いた城です。 江戸幕府が
体制を確立する激動の時代に、濃尾平野
を見晴るかす高台に忽然と巨大な城郭が
誕生した。

 1610年(慶長十五), 徳川家康、名古屋
城築城に着手する 。1614年(慶長一九)
に名古屋城竣工、徳川秀忠、名古屋城を
検分する。