戦乱のなかの女性たち 吉乃(きつの)編    

 
 吉乃 (信長に家庭の幸福を与えた初恋の人)

 弘治二年(1556)の秋、尾張小折村の豪商生駒家で、この家の吉乃(吉野)は、たまたま遊びに来た信長と出会った。信長は23歳、諸説あるが、たぶん吉乃は19歳だった。この時、吉乃はすでに人妻、いや合戦で夫を失ったばかりの愁いに沈む未亡人であった。
 一目で吉乃を見初めた信長は、生駒家に足繁く通い、翌弘治三年には奇妙(信忠)が生まれた。「さても目出度きかな」と、信長は自分の家臣はむろん、生駒家の下男下女たちまで引き連れ、夜のふけゆくのも忘れて踊り明かした。
 この時、信長は斎藤道三の娘・濃姫を正室にしていたが、吉乃こそは、みずからが選んだ初恋の人であった。「信長殿深く惚れられ御子をもうけられまする」という証言もあるが、永禄元年(1558)に於茶筅(信雄)、永禄二年に五徳(徳姫)と、次々と子供が生まれている。
 生駒家は近在並びない富豪の家で、諸国の商人や得体の知れない牢人が、絶えず出入りして活気にあふれていた。木下藤吉郎・・・後の豊臣秀吉もその一人で、絶えず押しかけては、諸国の珍しい話や卑猥な事件などを臆面もなくしゃべって、吉乃を笑わせた。そんな秀吉を、吉乃は「眠れる馬も走り出すほど奇妙な道化」と面白がりながらも、一方でただ者でないことを直感したのか、信長に紹介している。
 信長の愛を得て幸せな歳月が流れたが、五徳(徳姫)を出産して以来、産後の肥立ちが悪く、吉乃は生駒家で病の床についていた。
 永禄6年(1563)、信長のたっての勧めで、吉乃は新しく築いたばかりの小牧山の城で養生すろことになった。新築御殿に入った吉乃は、さっそく書院で信長の重臣たちの挨拶を受け、「御台様」と呼ばれた。
 新しい城では三人の子供たちとともに暮らした。信長もたびたびやってきて談笑した。その都度、やれ薬は飲んだか、食は進んでいるかと優しい言葉をかけるので、思わずほろりとする吉乃、そんな吉乃の様子を「武功夜話」の著者は、「年増女のはじらい顔にほんのり紅染むるなり」と書いている。
 吉乃は、信長に幸福を与えられた。裏返せば、信長こそが、束の間、やすらぎを体験できたともいえる。
永禄9年(1566)、小牧山の城で永眠した。亨年29。


               出典「週刊 ビジュアル日本の合戦」NO16 講談社                     
生駒氏系図 生駒屋敷  久昌寺は生駒屋敷の左下あたりに位置する
生駒家の菩提寺 嫩桂山久昌寺  墓地は左奥にある 嫩桂山 久昌寺の歴史観光案内板

久昌寺本堂 吉乃の方(久庵桂昌)の位牌 久昌寺墓地 吉乃の方墓碑は右一番目 建立者は信長と記載
奥は、吉乃の方荼毘墓碑 (田代墓地内の西側)
経塚は主君信長の居城小牧城に向け建立された
吉乃が主君信長と子供(信忠・信雄・徳姫)と過ごした小牧城